失敗大賞応募作品

良い仕事をする人になるために

岐阜県・西原聡さんの失敗大賞応募作品「良い仕事をする人になるために」を紹介します。

2017.05.04

「商売も世の中も、全て私は信頼が第一と考えとります。折角のお誘いですが辞退させて頂きます。」

こう締め括った社長の言葉を聞いた時、僕は上司やその訪問先の社員を前にし、人目もはばからず泣いた。もう十五年も前の話だ。
当時私は自他とも認める新進気鋭の銀行員、最初に配属された本店での得意先係を経て、転勤となった二店舗目の大型支店でも、同期の中で異例の速さで、融資係に抜擢され有頂天になっていた。

当時私が入職した銀行は、入社後の新人は一定の教育終了後に各支店に配属され、人事異動により転勤する先輩職員からその担当地区を譲り受け、引き継ぎ後に、先ず得意先係から経験する仕組みだった。私が最初に配属されたのは本店で、当然、預金量や融資額とも全店中トップで、意気に感じていた。
だが私が引き継ぎを受けたのは、正直余り見栄えのせぬパッとしない先輩で、昇進も遅く、地道なアナログタイプの行員で、最終的に引き継ぎを終えた彼は、詳細な担当地区の情報や地図を一冊の資料にまとめ、私に渡して他店へ移動していった。

そして私は正式に独り立ちし、得意先係として地区内を回り預貯金、融資の獲得を行う日々が始まった。
駆け出しにも関わらず目標を絞り、がむしゃらに顧客を追った。狙いは絶対に逃すまいと誓い、自店のみならず全店舗の得意先係を自分のライバルと見なし一心不乱に、預金や融資の獲得に邁進した。その結果、業績は順調に伸び、不振を極める同僚を横目に見ながら、勝ち誇ったか様に仕事をする毎日が続いた。
今思えば、心の底で業績不振の同僚達を嘲笑していた。得意の弁舌を駆使し、半ば口八丁で獲得を積み上げて行く私の業績は、自ずと行内でも抜きん出て、そんな私に対する本部の評価は高く、数多くの表彰も受けた。順風満帆の日々が続き、他の支店の名も知らぬ職員が、あれが評判の西原だと、私の名が噂されるのを得意げに聞いた。

しかし、当時は金融破綻も出始めた頃で、私の銀行でも、その余波を受け、電子化や省力化が進み、得意先係の外回りも電子端末が導入されるなど効率性が重要視されだした。

得意先係の仕事は外回りの預貯金や融資の獲得だけでなく、これらに繋がる重要情報の入手など多岐に渡る。時には保険や証券等も扱い、当時本部から各得意先係に課せられる目標も、多い時には一度に十数種類が割り当てられた。何もせねば直ぐに一日が過ぎ、その分、同僚に遅れをとる。そして獲得実績の低下は評価の低下に繋がり、給与や昇進にも影響する。実際に、この過酷な状況から脱落し、退職していく同僚を目の当たりにし、社会の厳しさと恐怖感に襲われた。

このような現実から、私は極力無駄を省き大口契約を求め、細かな個人の積立集金等は自動振替に変更して貰うなど、徹底的に自らの業務効率化を図った。当然、個人顧客に固執し、旧態然の戸別訪問を細目に重ねる同僚もいたが、私はそんなやり方は時代遅れと目も暮れず、それまで行っていた個人顧客の定期積立をを止め、強引に自動振替に変更していった。変更により、顧客に手数料負担が発生したが、悪く言えば顧客を言いくるめて自身の業務効率を優先した。心の中では顧客の手数料負担に罪悪感を覚えたが、全ては銀行の利益向上の為と自分に言い聞かせた。

そしてこのような手法が功を奏し、私は順調に、大口実績の積み上げに成功し、同期でいち早く役職登用試験に合格した。
そんな時、一本の電話が私に入った。店舗から随分離れた所に住む老婆からで「今月まだ集金に来て貰って無い。」との内容だった。
「そう言えば引き継ぎで行ったっけ。あんな遠い小口集金には付き合えないな。」
安直に考えた私は、早速老婆の家に出向き、以前と事情が変わり今後は集金に来れない旨を告げ、自動振替の手続きを行い帰店した。

それから数年後、異動後の次店舗で同期中で一早く融資担当となった私は毎日の残業も苦にならぬ程、仕事に励んだ。
正直このまま順調に行けば数年先には確実に役職者だな。そんな身の程知らずの打算さえ働いていたある日、取引先の優良企業の新規工場建設という、この上ない情報を掴んだ。私は早速その企業の社長に融資提案の約束を取付け、店長と伴に自信満々に社長との面談に出向いた。

メインバンクは当行では無くライバル銀行だ。ここで大口融資を実行出来れば更に自分の株も上がる。不良債権化の心配も無い優良先で安全性は確実だ。当行に過去の不手際等もない。事前の本部への根回しも万全でお墨付きを得ている。私は社長に会う前から、融資取引の成功を確信していた。
応接で待つ私達の前に、油まみれの前掛けと帽子を取り入って来た男性が社長だった。

「この社長は現場にも出るんだ。よし偉そうに頭でっかちの理論を並べるタイプでは無さそうだ。これなら行ける。」職人気質で実直な風貌が私にこのような印象を抱かせた。
そう踏んだ私は、必死に融資の必要性を説いた。内心自分の説明に手応えも感じた。しかし社長から発せられた言葉は思いも依らない「辞退させて頂く。」というものだった。

「何故だ。他行に条件面で負ける訳が無い。」そう思い、必死に食いつく私に彼は言った。
「○○という老女を覚えていますか。」
私は全く思い出せなかった。しかし頭の中で、じんわりとあの数年前に集金を断った老婆である事を思い出した。

「あれは私の母親です。お宅の銀行には創業時から大変お世話になり感謝しています。だから母親も毎月の少ない年金から、積立をしていました。最初は息子が商売でお世話になるからとの理由でしたが、その内にこう言い出しました。あそこは転勤で人が替っても、いつも良い行員さんが来てね。毎月お菓子を用意して待ってるんだよ。こんな端金でも来てくれて、色々と話す内に淋しも紛れるんだよ。今度も担当が変わって挨拶に来てね。今度の子は今迄で一番若くって、孫みたいで可愛いんだよ。これから楽しみだねぇ。」

紛れもなくその若い行員とは私だった。毎月そんなにも私の訪問を楽しみにしてくれていたとは全く気付かなかった。不幸にも転勤前に亡くなったと聞いたが、薄情にも余り気に留めず、取引額の少なさから弔電の手配をしただけで葬儀にも参列しなかった。

「私は商売も人生も信頼が第一と思っています。信頼とは信じてその人を頼るんです。決して貴方を責めてません。でも私の母の様な小さな存在でも大切にしてくれる銀行に今回の融資は頼るつもりです。貴方はまだ若い。これからはどうか、小さくても大切な事柄も大事にして、良い仕事をする人になって下さい。偉そうな事を言ってすいませんでした。」

こう社長に言われ、私の頬を涙が止めどなく流れた。自分がどれ程、天狗になっていたか恥じた。それから数日間はあの社長の言葉ばかりを考えた。私はここ何年か機械だったような気がした。薄情な機械となり、本来人として一番大切な信頼関係や心の触れ合いといった物をいつしか捨てていた。思い詰め、同僚に心情を打ち明けると「そんな情けをかけていては、この業界では生きて行けない。」と口を揃え言われた。

しかしあれ以来、社長が最後に言った、良い仕事のする人になって下さい、という言葉が頭から離れず、私の業務への姿勢も変化した。融資を求める小さな声に耳を傾け、家族構成や生い立ち等も考慮し極力融資に取り組んだ。却下された案件を持って本部へ直談判にも赴いた。当然上司の評価や実績も下がったが、もう機械にはなりたくなかった。

そんな時「我が子に誇れる仕事をしよう。」という雑誌記事を目にした。私は何億という金額を扱い、いつしか自分の価値もその位大きな存在だと過信していた。私が我が子に何が誇れるか疑問に感じた。数年悩んだ末私は銀行を辞めた。「何でお前が、後少しで。」そんな同僚上司の言葉はもう要らなかった。

そして私が選んだ第二の人生は介護施設の相談員だった。子供に明快に説明出来る仕事では無いけれど、あの日あの時以来尽きなかった悩みに対し、少しでも償おうと思い色々な立場に置かれたお年寄りの相談に耳を傾ける仕事に就いた。収入は激減した。

スーツを捨て、エプロンに身を包み、他の介護職員と伴に入浴や食事介助を行いながら、お年寄りそれぞれに合ったプランを立てている私の姿を、遠巻きに眺めた妻は泣いた。

しかし今は険の取れた私の表情を見て、「貴方が良い仕事が出来る人になりたい。」と言った気持ちが判ったと言ってくれている。私が本当の意味で良い仕事をする人間になれるかは、今後どう生きるかにより変わる。しかしもう二度と心の通わない機械には戻らない。その思いだけは決して揺らがない。

カッシー

良い仕事….、
僕はできてるかな…。

ジミー

カッシーはだめね!笑
それにしても、この話はなんだか、色々考えさせられるわね。

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